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地震に強い建物とは? 有意義だった「柔剛論争」
2011年10月13日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
建築好きな人、
特に近代の建築史に詳しい人でしたら、
「柔剛論争」
のことをよくご存知と思います。
とても有名な論争です。
主に昭和初期を舞台に、
関東大震災の惨劇をふまえ、
建築界のみならず、
広く世間も注目のもと、展開されました。
テーマは、
「地震に強い建物のつくりはいかにあるべきか」
論争の主役は、
一方が、佐野利器(さのとしかた)。
帝国大学教授、東京市建築局長、帝都復興院理事など、
その生涯をきらびやかな肩書にいろどられ続けた、
建築界の重鎮です。
一方が、真島健三郎。
海軍省の技師で、鉄筋コンクリート構造物の設計においては、
日本最初の「プロ」のひとりと見られる人物です。
二人は、
「地震に強い建物のつくりはいかにあるべきか」
について、
佐野・・・「剛構造」
真島・・・「柔構造」
おのおの、
その主張を掲げ、激しく意見をたたかわせました。
二人の理論を専門的な言葉を使わずに、
ごくごく簡単に説明すると、
佐野の「剛構造」は、
「建物をがっしりと強く固めよ」
真島の「柔構造」は、
「建物は必要な程度柔らかく建てよ」
と、いったところです。
剛構造は、
建物を一個の堅固なかたまりにして、
地震の力に抵抗させようとする考え方、
柔構造は、
建物自身がしなやかに揺れることで、
そこにかかってくる地震の力を受け流そうとする方式、
但し、どちらも目的は同じです。
建物の設計と構造を工夫することによって、
地震による破壊や損傷を免れようとするものです。
この柔・剛の論争は、
長年にわたって続きましたが、
結局、
どちらの意見が勝利をおさめたかというと、
「論理的には決着がつかなかった」
と、いったところです。
しかし、現実として、
「佐野の剛構造が、
社会には広く信頼され、選ばれるところとなった」
と、しておくのが妥当です。
ですが、
現代に生きる私たちは、これに対し、
「おや?そうだろうか」
と、感じざるをえません。
東京はじめ、
日本中に建ち並んでいる高層ビルなど、
多くの建物が、
真島の柔構造で成り立っていることをよく知っているからです。
柔剛論争には論理的な決着がつきませんでしたが、
つかなかったのは当然で、
結局のところ、
真島の意見もまた、立派な正解だったのです。
しかし、
二人が論争したのはまだまだ古い時代のこと。
日本に、
柔構造が有効となるほどの高層ビル・超高層ビルが
建ち並ぶことはありませんでした。
なにぶん、
当時は、大都市に建つビルでも、多くが4、5階建て程度です。
こうした規模の建物を下手に柔構造で建てると、
建物のやわらかな「しなり」が、
各階の壁や窓、配管などに大きな変形をおよぼすことになります。
各所に破壊が及び、
主に財産上の、甚大な被害が生じることとなるでしょう。
そうなると、自然に、
選択肢は、
とにかく地震に真正面から打ち勝つ方法としての剛構造のみ、
と、いうことになるわけです。
さて、
以上のような顛末となった柔剛論争ですが、
この話には最後にひとつ、
あるエピソードを加えることが定番(?)となっているようですので、
この記事もそれに従っておきましょう。
登場するのは、
武藤清という人物です。
剛構造を主張した佐野利器のもとで建築構造を学び、
柔剛論争では、
「佐野・剛構造派」の若き論客として、
真島とたたかいました。
この武藤が、のちに、
日本最初の超高層ビル「霞が関ビル」の構造設計を
担当することになるのです。
そして、
多くの人がご存知のとおり、霞が関ビルは、
「五重塔にヒントを得た」
などとも言われる柔構造の建物として、昭和43年に竣工します。
地震に対する柔構造の有効性を
日本だけでなく、世界に対しても見事に確立させたのが、
この武藤なのでした。
佐野のもとで、
柔剛論争に深くかかわってきた武藤清。
そんな彼であったからこそ、この輝かしい結果を
まさに「柔軟」に、
導いたものと思われます。
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