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どんな借り手が現われる?新宿の名建築「旧小笠原邸」
2012年02月16日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
いま、あるオーナーさんが、建物の借り手を募集しています。
オーナーさんの名前は「東京都」。
ただし、
建物は都営住宅ではありません。
新宿区河田町に建つ、
東京都選定歴史的建造物「旧小笠原邸」という、
とても美しく、特徴深い建物です。
1927年(昭和2)に建てられた
鉄筋コンクリート造りのこの邸宅、
どんなところが特徴深いかというと、
注目すべきは、その建築様式です。
「スパニッシュ」
と、呼ばれるもので、
ひらたく言えば「スペイン風」。
しかし、近代の建物において、スパニッシュという場合、
長くイスラム勢力の支配下にあったイベリア半島・・・という
歴史的事情を反映した、
イスラム様式が各所に混じったスタイルを
おおむね、指すこととなっています。
昭和の戦前の時代、スパニッシュは、
主に邸宅向けの様式として、
ちょっとした流行にもなりました。
「旧小笠原邸」は、
その生き残りのひとつなのですが、
小さな開口部にスペイン瓦、
パティオ、
イスラム風の装飾に彩られた喫煙室など、
スパニッシュの見本ともいっていい、
かくしゃくとしたその姿です。
この建物の最初のオーナーは、
その呼び名のとおり、小笠原さん。
小笠原長幹(ながよし)という人物です。
明治の生まれですが、お父さんは最後の小倉藩主だった人。
その子として、長幹氏もまた、
歴史ある小笠原家の当主をつとめました。
建物は戦後、GHQの接収を受けます。
その後、
東京都の所有となり、
児童相談所として使われていた時期もあったそうです。
さらに2002年からは、
都が貸し付け、
レストランとして使用されていましたが、
来年3月には契約が満了。
都民への公開、
建物の歴史的、文化的価値を活かせる事業を行うことなどを
条件に、
次なる借主を募集しているのだそうです。
どんな姿に生まれ変わるのか、
楽しみな建物です。
東京都のサイトで、
建物の内外観などが見られます。
↓
http://www.metro.tokyo.jp/INET/BOSHU/2012/01/22m1j100.htm
妻木頼黄が残した、横浜と東京で愛されるランドマーク
2012年02月09日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
先週まで、
この「雑学いろいろコラム」では、
6回にわたって、
目下復元工事の進む
東京駅丸の内駅舎にまつわるお話を続けてきました。
そこで今回は、いわば「番外編」。
妻木頼黄(よりなか)という建築家の作品について、
少しお話しすることにしましょう。
妻木頼黄・・・
前回のお話で、東京駅の設計者である辰野金吾の
ライバルとして登場しました。
大蔵省を拠点に、
官僚技術者達のリーダーとして、
近代日本における記念碑的な建物になるとされていた
国会議事堂の建設計画を主導、
しかし、その道半ばにして命の炎燃え尽き、
夢破れた男です。
この妻木の作品ですが、
実はなかなかの大作、名作が私達の身近に残されています。
で、ありながら、
「あの○○は妻木頼黄(および彼が率いた「チーム」)の
作品なんだよ」
と、本人の名前にからめて紹介されることが、
なぜか彼の場合、とても少ないようです。
そこで、今回は、
横浜と東京にある彼の代表作三つをここで
紹介してみたいと思います。
まずひとつ目。
横浜中心部、有名な「馬車道」に面して建つ
「神奈川県立歴史博物館」です。
明治37年、横浜正金銀行本店として建てられた、
重厚かつ壮麗なバロック建築です。
ライバル辰野金吾も含めた同世代中、
もっとも優れていたともされる妻木のデザイン力が、
如何なく発揮された大作です。
さらに二つ目。
かつてはテレビドラマなどのロケ地に。
今は横浜の代表的な観光商業施設として・・・
全国の人に知られています。
「横浜赤レンガ倉庫」です。
明治44年に2号倉庫が、
大正2年に1号倉庫が完成しています。
港町横浜のランドマークのひとつとして、
知名度では、
神奈川県立歴史博物館を数段凌ぐでしょう。
そして三つ目。
場所を東京に移します。
ただし、
今度は建物ではありません。
あまりにも有名なある「橋」が、
実は、妻木の作品なのです。
それは「日本橋」。
妻木は、
明治44年に竣工し、いまも残るこの橋の建造において、
いわば、
「総合デザインプロデューサー」
と、いった立場の仕事をしています。
程近いところに建つライバル・辰野金吾の
日本銀行本店とともに、
両者仲良く、
街の象徴的な風景をかたちづくっています。
以上、長きにわたってお届けした、
東京駅丸の内駅舎とそれにまつわるお話。
今回をフィナーレといたします。
辰野金吾。東京駅をつくった男は、ラスト・サムライのひとり その3
2012年02月02日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
お話は前回からの続きです。
「日銀、東京駅、国会議事堂の三つをつくりあげること」
辰野金吾はこの生涯の目標のうち、
すでに二つをその手にし終えました。
次はいよいよ、国会議事堂です。
しかし、
こちらはなかなかスムースには進みません。
官に育てられたあと、
民に下って(?)その星として輝いた辰野金吾、
彼は、明治の日本が成長してきたかたちを
そのまま一身に体現したような男でした。
しかし、一方、
彼がいわば野にあって大活躍している間、
官の方は官の方で、
地道に力をたくわえ続けていたのです。
国会議事堂は、
国家の象徴として、
出来上がればまさに近代日本の記念碑となるべき
重要な建物でした。
誰がこれをつくり上げるべきか?
どんな建物にするべきか・・・?
これに対し、
「国会議事堂は我々官の手でつくらせてもらう」
そう主張するのは、
大蔵省をその拠点とする官僚技術者達でした。
一方、
「いや、広く設計を募るべし。公開コンペにせよ!」
辰野とその教え子達は、そうはさせじとばかりに、
マスコミをつかい、
世論に訴え、
はげしく官僚側と主導権を争いました。
しかし・・・
長期にわたる議論空しく、
辰野達は負けてしまいます。
国会議事堂の設計は、大蔵省側の強力なリーダーだった
妻木頼黄(よりなか)らの手によって、
進められることとなったのでした。
ところがその後、
意外なことが起こります。
財政上の支障が出て計画の進行が遅々とする中、
なんと、妻木が没してしまうのです。
こうなると形成は一気に逆転。
建築界のキング・辰野の熱情を抑えられる者は、
もはや官民いずれにも見当たりません。
国会議事堂は、
辰野金吾主導によるコンペによって、
そのデザインが募られることとなったのでした。
ところで、なぜ辰野の主張は、
「オレにつくらせろ!」
ではなく、
「コンペ」だったのでしょうか。
無理もありません。
辰野はもはや建築界の重鎮、偉大な長老です。
「オレに、オレに・・・!」と、
駆け出しの若者のようなことを言うわけには
いきませんでした。
さらには、
もしも彼がそんなことを言い始めたら、
味方も皆シラけてしまい、ついてはこなかった筈・・・。
これらが、
理由として大きいでしょう。
そこで、
辰野は当初、こう考えていたようです。
「コンペとなれば、オレが審査員に選ばれることは必然。
同時に、もっとも発言力のある審査員は
オレということに。
そこで『審査員も作品を応募できる』ということに
してしまえば・・・しめしめ・・・」
さらにのちには、
こう軌道修正したといわれています。
「オレが応募できないのなら、
応募案の中から選ばれたものに、
オレが思い切り手を加えることが出来る仕組みに
してやろう。そうなれば事実上、
国会議事堂はオレの作品に・・・!」
むしろ惚れ惚れするほどの
ラスト・サムライのおそるべき執念といっていいでしょう。
しかし、
天は、このサムライが、
描いたすべての夢をつかみとることを
許しませんでした。
ほどなく、
辰野の思惑どおりに実施された国会議事堂設計コンペ。
そこで選ばれた作品に、
いよいよ手を加えようとしたその時、
彼は力尽きたのです。
病に侵されたその肉体は与えられた寿命を終え、
辰野金吾はついに、
永遠の旅路についたのでした。
享年六十四。
その後、国会議事堂の設計は、
コンペ案を下地にはしながらも、
実質上、
あの妻木頼黄のあとを継いだ、
官僚技術者らによってすすめられることとなりました。
その中心となった人物、
矢橋賢吉は、
かつて帝国大学で辰野の教えを受けた、
いわば弟子の一人でした。
・・・さて、以上で、
三週にわたって続いた辰野金吾のお話は終わりとします。
来週は「番外編」として、
もうひとり、
ある建築家とその作品についてのお話しをいたしましょう。
辰野金吾。東京駅をつくった男は、ラスト・サムライのひとり その2
2012年01月26日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
お話は前回からの続きです。
「日銀、東京駅、国会議事堂の三つをつくりあげること」
これを建築家としての本懐と定めていた辰野金吾。
大正3年、
日銀に続いて、
彼はいよいよ東京駅を竣工させました。
と、同時に、
この建築界のキングに、落日の影が差し始めます。
歯に衣着せぬ非難が、
世間から聞かれ始めるのです。
「何て不便な駅だ!」
今でもこの名残は感じられます。
東京駅丸の内駅舎の地上における「中央口」といえば、
目立たぬとても小さなものが、ポツリ・・・と
おちょぼ口を開けています。
ですが、
この状況、まだ幾分かマシになったもの。
竣工当時、
一般出入口は、
南北、それぞれが建物の両端にだけ、設けられました。
あれほど長大に外の広場に面している建物なのに、
端っこだけにしか、出入り口が無いのです。
しかも当時は、二つの出入り口が、
なんと、
「入口専用」と「出口専用」とにわかれていました。
なので、
うっかりこれらを間違うと大変!
延々、約300メートル、
駅の前か駅の中を歩かされるはめとなりました。
「なぜ丸の内側に駅舎を置いたんだ!」
ここ最近、ショップなどが増え、
めざましく変貌している丸の内の街並みですが、
しばらく前までの様子をご存知の皆さんも
多分、大勢いらっしゃるはずです。
過去は大きく違っていました。
オフィスばかりの、
失礼ながら味気のない風景でした。
繁華な界隈といえば、
丸の内とは反対側の八重洲方面こそが、
今も昔も、そうでした。
最新鋭の立派な駅舎を
わざわざ寂しい街に向けて置いた意味を
人々は不満を込めて問うたのです。
しかし、
実は、これらの計画は、
辰野が立て、線引きしたものではありませんでした。
設計が辰野に依頼される以前から、
色々な経緯と理由があって、
決められていたことだったのです。
ところが、辰野は、
その名前がすでに大きくなりすぎていただけに
ある意味、不幸でした。
「使い勝手の悪い巨大な明治の遺物、
こしらえたのは誰だ?」
と、なったとき、
象徴としてその名が挙がるような立場に、
彼は立たされることとなってしまいました。
しかし、
それ以上に痛烈だったのは、
同じ建築畑に生きる玄人筋からのするどい批判でした。
怖れを知らない若手が、
そろそろこの世界にも育ってきていたのです。
彼らは、
手探り、見よう見まねで、
なんとか西洋建築の一端をはぎ取って身につけた
辰野達の世代とは違い、
その知識は広く、
建築様式への理解も格段に深めていました。
そのため、
東京駅を一瞥して、「醜悪だ」と、一蹴。
「皆、辰野さんのこしらえるものを本物の西洋建築だと
思っているのか?
あのセンスでは世界の笑いものだぞ」
と、まるで言わんばかりに、
同じ丸の内に、東京駅と同じ様式の本物(?)を
建ててしまった建築家までが登場しました。
彼の名は「松井貴太郎」。
辰野より30歳近くも年下の新進気鋭。
この建物は近年建て替えられましたが、
その外壁などが、今も、
新たな高層ビルの一部を構成するかたちで、
残されています。
東京駅にほど近いお堀端にある
「東京銀行協会ビルヂング」がそれです。
もしご存じなければ、
ぜひ一度、
実物をご覧になってみてください。
一見して、
「東京駅と似た雰囲気。しかし、とても軽快でスマート」
と、多くの皆さんが感じられることでしょう。
もっとも私は、
辰野の東京駅の重厚な外観も、
これはこれで、魅力的に感じています。
さて、
そうこうしているうち、
いよいよ、
辰野生涯の目標のうち、残された最後のひとつ、
「国会議事堂」
の建設が、具体化してきました。
もちろんのこと、
「これも必ず俺の手で!」
と、辰野は執念を燃やします。
しかし、
そんな彼の前に厚く立ちはだかったのが、
大学教育、海外留学、日銀の設計・・・と、
かつての辰野金吾に出世のステージを与え、
彼を大きく育ててくれた、
「官」の存在でした。
お話は来週に続きます。
辰野金吾。東京駅をつくった男は、ラスト・サムライのひとり その1
2012年01月19日こんにちは。
大家さんのための賃貸経営マガジン「オーナーズ・スタイル」
編集長の上田です。
木曜日は「雑学いろいろコラム」です。
さて、
この「雑学いろいろコラム」では、
前回まで三週にわたって、
復元工事の進む東京駅・丸の内駅舎のお話を続けてきました。
今週も続けてみたいと思います。
ただし、
今日は、現在のお話ではなく、古い過去の物語。
東京の象徴のひとつ、
この巨大な赤レンガのモニュメントをこしらえた、
「辰野金吾」
と、いう人のお話です。
生まれは九州。
唐津藩。
辰野は、下級武士の次男として、
この世に生まれました。
時は風雲。
ペリー来航による黒船騒ぎと、
それに続く激動の時代が幕を開けています。
十代半ばで明治維新を迎え、
辰野は、
親・先祖から引き継ぐはずだったその特別な身分を
失いました。
いわゆるラスト・サムライのひとりです。
やがて明治5年、
辰野は東京に出て、立身の道を探します。
翌年、工部省工学寮
(のちの工部大学校、帝国大学工科大学、
現在の東大工学部)に入校。
明治8年、
志望を造家学科、すなわち建築の道に定めました。
さらに、明治10年、
辰野はイギリスからやって来た若き建築家、
ジョサイア・コンドルと出会います。
彼から深く西洋建築を学びます。
明治12年、
工部大学校を主席で卒業。
官費海外留学を終えると、
さっそく母校の教授に就任。
以降、
後進の育成のため、昼夜邁進の日々を送りました。
そんな彼に、大きな仕事が任されることとなりました。
「日本銀行本店」の設計です。
近代国家に必要不可欠、
かつ、これを象徴する建物として、
国の中央銀行は、その最大のもののひとつです。
辰野はこの仕事をひきうけるにあたって、
まずはヨーロッパ各国およびアメリカを歴訪、
参考となる建物を調べつつ、研究をかさねました。
そしていよいよ工事を開始。
明治29年、ついにこれを完成させました。
ちなみにこの建物は、
多くの皆さんがご存知のとおり、
いまも日銀本店の一部(旧館本館)として、
東京・日本橋に残っています。
さて、
この日銀本店の完成によって、
辰野の夢はさらに大きく膨らみました。
彼は、
「日銀、東京駅、国会議事堂の三つをつくりあげること」
これを建築家としての「本懐」と定めていたのです。
そして明治39年、
二つ目の夢である中央停車場、
すなわち「東京駅」の設計を辰野は開始します。
またこの時期、
辰野は、官を辞して事務所を開設。
自営の建築家となって大活躍。
日本各地に次々とその作品を完成させていました。
旧日本生命九州支店(福岡市)
旧日本銀行京都支店(京都市)
旧盛岡銀行本館(盛岡市)
等々、いまもそのうちのいくつかが、
街の記念碑として健在です。
しかも、
建物ばかりではありません。
彼に続く工部大学校~帝国大学工科大学卒の
一流建築家達といえば、
その多くもまた辰野の作品、つまりは教え子です。
皆、辰野に頭が上がりません。
彼は、
そんな日本建築界の王様のような立場に登り詰めながら、
大正3年、
いよいよ東京駅を竣工させました。
ところが・・・
この出来上がった東京駅を見て、
次々と非難の声が上がり始めたのです。
辰野金吾、
苦闘の晩年の始まりでした。
お話は来週に続きます。



